京おかきの歴史
そもそも「おかき」とは?
おかきの素材である餅はいにしえより、大小重ね、神仏にお供え物として用いられてきました。その餅を現代では鏡餅と呼びますが、平安時代には「餅鏡」(もちかがみ)と呼ばれていたと言います。
古来、鏡は呪術的な霊力を備えたものとされ、祭器や首長の権威をあらわす道具でした。また、餅は神聖な力がこもる食べ物と考えられており、この餅を神の宿 る鏡に形造ったのが餅鏡とされました。餅鏡は餅で造った鏡であって、神に供え、見て祝うものであったことが平安時代の記録に残されています。
時代が進み、 鏡が世俗化されるにつれて、餅鏡はいつしか鏡餅へ変化したと考えられます。普通は1月11日に鏡開きを行います。鏡開きは、正月に供えた鏡餅を下げて食べ る行事で、鏡割り、お供え開きともいいます。鏡餅を刃物で切ることを忌み、 槌で叩いて割ったり、手で欠いたりして、割って食べました。鏡開きは平安時代からの習慣で、割った餅は雑煮や汁粉にして食べるほか、干し餅(欠餅)や氷餅 にして保存もされました。
この「干し餅」すなわち「欠餅」を焙れば「おかき」です。これを食べることが今も続いているのです。「かきもち」を「おかき」と呼ばれるのは室町時代の宮中で女房ことばとして使われたのが始まりとされ、京ことばなのです。
(京都米菓協同組合設立50周年記念誌 参照)
京おかきの歴史

弘源寺

現在の安養寺表門

現在の左阿弥
おかきはいにしえの都人の嗜好品として好まれていました。江戸時代、嵯峨天竜寺の塔頭、弘源寺に身をよせていた湧蓮(ようれん)上人(1715~74)は里人が差し上げた餅でおかきを造り里人に与え、自らも好物だったと伝えられています。
また、円山公園(京都市東山区)奥にある丸山安養寺、双林寺、正法寺の坊さんたちは「かき餅」を製造販売していました。元禄以前からです。このうち安養寺の製品が特に優れ「丸山欠餅」(まるやまかきもち)と呼ばれ、箱に入れ、土産物として遠方に送られていました。その製法は手造りとして、基本的に今も変わりません。江戸から京を見た評判記「富貴地座位」(安永6年・1777、江戸で出版)は、京名物の第3位に「丸山欠餅」を掲載しています。安養寺の塔頭、左阿弥(さあみ)はその製法を明治になっても伝えていました。
後に「京都坊目誌」(明治29年~大正3年 1896~1914)は丸山欠餅について「この欠餅の製法は、ひとり左阿弥に伝うるだけ」と記していますが、京おかきの組合は明治40年(1907)に発足しています。組合員は15名でしたが、それ以上の「おかき、あられ」の業者が存在していたと考えられてます。
「富貴地座居」が選ぶ京名物ベスト10
座居すなわち順位の総括的トップとして、京の水をあげていますが京の水の良さは、江戸とは比較になりませんでした。江戸の下町は神田台を削平して、日比谷の入江を埋め立てたものです。そのため井戸を掘っても塩分が多く、飲料水にはなりません。それに対して、京は山紫水明、事情はまったく違ったのです。以下は同書の「京の水」に続く名物の部のベスト10です。
(京都米菓工業協同組合設立50周年記念誌 参照)